クリストファー



 少女は自分の事を何も覚えていない。
 自分がどこの誰なのか、いつ頃からこの屋敷に彼と暮らしているのか、何一つ思い出せないでいた。
 屋敷はかなりの年代を経た建物のように思われた。尤も、彼女は自分が身を置いている時代を知ら
なかったから、どれほど昔なのかは分からない。ただ、古めかしい、という感覚があるだけだ。
 屋敷内はかなりの広さだったが、どの部屋も掃除が行き届いていた。二人の他には誰一人(使用人
すらも)いないというのに。
 彼女は外に出た事が無かった。いや、厳密には敷地内から出た事が無かった、というべきか。単に
外気に触れるだけなら庭に出ればよかったが、本当にこの屋敷の外に出ようとすれば、この広い庭を
抜けて、何マイルも先にある門をくぐる必要がある。彼女はそんな苦労をしてまで出口を探し求める
つもりは無かった。不思議とそんな気は起こらなかったのだ。それよりも、彼のいるこの屋敷でゆっ
たりと過ごす事の方が大切に思われた。
 彼の名はクリストファー。彼女にとって、大切な、愛しい人。このままずっと彼と二人で暮らしてい
ければそれでいい…。


 ある朝の事だ。

     駄目だよ、覗いちゃ。

 背後から投げ掛けられたクリスの声に、少女は手を止めた。
 少女が覗こうとしていたのは、大きな姿見である。それは幾つかの小さな絵画と共に、階段の踊り
場の壁に据え付けられ、裾に刺繍の入ったビロードの様な布が掛けられていた。僅かに布からはみ出
している枠の装飾品から、かなりの値打ち物だと分かる。以前に彼女が尋ねたところ、鏡であること
が分かったが、なぜこのようにして覆ってしまっているのか(これでは姿見としての機能を果たせな
いではないか)そのことがずっと気に掛かっていた。

     起きてたの。

 彼女は悪戯を見つけられた子供のように首をすくめる。

     とっくの昔に起きてたよ。

 彼はこれ以上咎めるつもりは無いのか、笑って言った。

     朝食の用意が出来てる、行こう。

 いつもと同じ穏やかな食卓。白いテーブルクロスの中央には、今朝咲いた薔薇の花が飾られ、朝露
が窓からこぼれる光を受けて、きらきらと輝いていた。

     ねえ、前から聞こうと思ってたの

 少女がおもむろに口を開く。クリスは丁度、ポタージュスープをひと匙すくい上げたところだった。

     何を?
     あの鏡の事よ。

 彼の顔色が変わった。

     どうしてあの鏡を見ちゃいけないの?鏡って見るためのものでしょ?

クリスは困ったような笑みを作りながら言った。

     前にも話さなかったかい?あれを見たら君はここに居られなくなるんだ。
     どうして?理由を説明してくれなければ分からないわ。

 彼が不安げに見つめる中、少女はさらに続けた。

     それだけじゃない、あなた私の事何も教えてくれないわ。本当は皆知っているのでしょう?私
がどこの誰なのか、どうして記憶を失ったのか、知ってて隠してるのよ!

 そう言ってしまってから、彼女ははっと口をつぐんだ。クリスが悲しげな面持ちで彼女を見つめて
いる。

     ごめんなさい。こんな事言うつもりじゃなかったのに。
     構わないよ。ただ、君がここでの僕との生活に嫌気がさしてるなら…
     ううん、違うの、私はあなたと一緒にいられて幸せよ。ただちょっと不安になっただけ。この
まま、記憶を取り戻せないで生きていく事に。
     焦ることはないよ。無理をしないでゆっくり思い出せばいい。それに…

 クリスは、テーブルの上にこぼれ落ちた薔薇の花びらを摘んで擂り潰した。

     知らない方が幸せな事だってあるさ。

 少女はその言葉にドキリとしたが、それ以上聞き返す事は出来なかった。何か大切な物を壊してし
まうような気がしたからだ。
 クリスはまるで何事も無かったかのように、庭に植えた新しい薔薇の話をしている。少女はその声
をどこか遠くで聞きながら、冷めてしまったスープに手をつけた。

 少女はその夜、ベットの中で風に揺れる木々のざわめきを聞きながら、考えていた。何故彼は少女
があの鏡を覗く事をあんなにも嫌がるのか。そういえば、この屋敷にはあれの他に鏡と呼べるような
物は無い。唯一の姿見に布が掛けられているとはどういうことだろう。

     ひょっとして、彼は私に私自身の顔を見せたくない?

 彼女は暗闇の中、自分の顔に触れてみた。

     思い出せない。自分がどんな顔だったのか。

 彼女は隣で眠っているクリスを見た。規則正しい寝息が聞こえている、当分起きないだろう。
 彼女はそっとベッドを抜け出し、窓ガラスに自分の姿を映してみた。よく分からない。しかし、明
かりを点せば彼を起こしてしまうかもしれない。
 彼女はとうとうマッチと燭台を手に、忍び足で部屋を出た。

 心臓の鼓動が早まるのを感じながら、彼女はゆっくり廊下を歩き、息を殺して階段を降りる。やが
て鏡の前にたどり着くと、マッチを擦って蝋燭に火を点し、鏡に近付いていった。

 布を、取り去る。

 少女は息を飲んだ。鏡には蝋燭の光に照らされ、彼女のほぼ全身が薄ぼんやりと映しだされている。
それは人間とは思えなかった。いや、かつては人間であったかもしれない。
 少女は燭台を取り落とした。炎は何かに燃え移ることもなく、静かに消える。彼女は声も出せず、
ただ、鏡の中の干からびた皮膚を、むき出しの歯を、かつて眼球があった場所にぽっかり開いた穴を、
そこから這い出ようともがく無数のウジを見つめた。それは腐った死体だった。

     そうよ、望んだのは私、忘れたかったのは私。

 彼女は全てを理解した。過去を忘れたいと望んだのは自分だったのだという事を。記憶と引き換え
に手に入れた幸せを、彼女自身が壊してしまった事を。

     クリスは私の望みを忠実に叶えてくれただけ…なのに私…

 もうここにはいられない、それに気付いた時は既に、皮膚の感覚がぐにゃりと変化し始めたところ
だった。

 絹を引き裂く様な彼女の悲鳴が、屋敷中に響き渡った…


 クリストファーは暫く放心したようにからっぽのベッドを見つめていたが、やがてどこからともな
く聞こえてくる忍び笑いに気付くと、急いで地下室に降りていった。

     何がおかしい!!

 部屋の隅の古い冷蔵庫が開き、その中段に座る小柄な老婆が、皺くちゃな顔を歪ませてニィっと笑った。

“ だから無理だといったのさ
  けれどあたしゃ 同情なんてしないよ
  家賃はちゃんと 払ってもらうよ
          幸せな月日の分まで  ”

     わかってる。

“ けどあんた、あたしたにに比べたらいいほうさ
   あたしの愛しいあの人は タイタニック号で沈んだきり
   骨も還らない  ”

     そうだよ。短い間でも側にいられた、それで十分さ。

 口ではそう言いながら、彼は彼女との永遠の幸せを望んでいた。たとえ叶わぬ望みであっても。

 この屋敷の大家である老婆も、たった一人の住人である彼も、永遠の闇に生きる者としての孤独を
抱えている。
 これまでも。そして、これからも。


 いずれ朝が来れば、彼女の死体が発見されるだろう。
 それでも屋敷は、死のにおいをまとわりつかせて、ひっそりと存在しているだけだ。


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